相手の意

北本亮一さん(高岡フィルムコミッション事務局) 高岡フィルムコミッション事務局北本亮一さん

活字離れとはいわれるが、むしろメールで気軽に発信することに慣れた若い作家が、続々と誕生している。
映画の世界でも、ドラマをつくりたい、ドキュメンタリーを撮りたいと、夢にチャレンジする若者がふえてきているようだ。何千万円、何億円という巨額な制作費を投入しなくても映画を作れる環境や、光るものは評価される環境が、醸成されてきたからだろう。
全国に百四十団体を超えるフィルムコミッションが、映画やドラマのロケを身近なものにし、地域を見なおす環境づくりに大きく貢献している。
JR高岡駅二階にある高岡市観光協会に、「高岡フィルムコミッション」の北本亮一さん(四十歳、高岡市)を訪ねた。
北本さんは東京の大学を卒業後、テレビ番組などの制作会社で二年間、照明担当として働いた。その後、高岡に帰り、平成八年、高岡市観光協会職員となる。
「はじめの頃は、映画とか撮影とか、全然念頭になかったですね。数年経った頃から、アメリカ南部で西部劇などを撮る際に、ロケ隊の宿泊から移動や撮影地の手配などを一手に引き受けて、これがメジャーな産業になっているという話が伝わってきまして。日本でも、映画やドラマづくりが首都圏の撮影所から地方にも出始めた頃だったんで、よし、やろうと、話が一気に進みました」
平成十三年三月、高岡市長をはじめ、商工会議所、観光協会、ホテル旅館組合、伝統工芸高岡銅器組合や漆器組合、青年会議所や観光ボランティアガイドなどの代表者が名を連ね、「高岡フィルムコミッション」が立ち上がった。日本では五番目に早い設立という
映画に限らず、テレビドラマや番組、コマーシャルなどのロケーションを誘致し、スムーズに撮影が進められる体制を整えることで、高岡市の知名度アップと交流人口の増加、経済効果を期待してのことである。
設立後最初の仕事は、日本テレビの火曜サスペンス劇場「地方記者・立花陽介」。金屋町や大仏、瑞龍寺、雨晴海岸など、高岡の代表的な観光スポットがロケ地になった。翌十四年には、NHK大河ドラマ「利家とまつ」でも高岡の紹介がされるなど、順調な滑り出しだった。
「最初につくったパンフレットがこれです」
北本さんが開いてみせたのは、高岡の代表的な建造物や景観、伝統産業や祭りなどを網羅した立派な「観光パンフレット」である。
「これをもって撮影所などへロケ誘致に回りましたが、鼻にもかけられません。違うんですよ。全国約千七百も自治体がある中で、北陸の高岡まできてくれるのは、少ないです。こちらの思いではなく、相手の要望にかなうよう、最善を尽くすことが大事なんです」
サスペンスやミステリー、◯◯殺人事件といったドラマが続いた。
「もっと、旅番組呼んで来いま!」と、げきが飛ぶ。
観光第一、イメージアップが求められる中で、時には撮影スタッフの一員のように意識する北本さんには、ジレンマの日々が続く。
「実際に撮影にまでこぎ着けるのはほんの一部で、その五倍以上のオファーがあります。問い合わせにすぐに対応できないと、他へもっていかれてしまいます。こちらの提案に、いいねェと乗ってきてくれても、暴力シーンはダメとか、せっかく昭和初期の最適な建物なのに、取り壊し予定だからダメとか、受け入れ体制が取れなくて、残念な結果に終わったこともあります」
大掛かりなロケが実現すると、宿泊や弁当、飲食、夜間照明やレッカー車など、地元への経済効果だけでなく、多くの市民エキストラが、わくわくしながら映画づくりに参加する。地元マスコミが報道すれば、いっそう盛り上がる。
「とにかく露出を多くしていきたい。イメージアップは結果的についてくるものです。より密度の濃い仕事をと考えているのですが、機動力がなかなかついていかない」
と、孤軍奮闘の北本さんは、悩みを打ち明ける。地元に詳しい人材ネットワークを広げ、束ねる、ワンストップ・コーディネートが求められている。

[談・北本亮一(高岡フィルムコミッション事務局)文・本田恭子]

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とある歴史証言

吉尾外吉さん(元立野ヶ原陸軍演習廠舍居住) 子供の頃の吉尾外吉さん 元立野ヶ原陸軍演習廠舍居住吉尾外吉さん

梅雨の晴れ間の午前十時、気温はうなぎ上りだ。ゆっくりとせり上がっていく道路の両側に、水田と柿畑が、なだらかな段をなして続く。南砺市福光から城端にかけての広大な台地、小矢部川右岸一帯に広がる「立野ヶ原」の一角に、このほど発見された写真の“少年”、吉尾外吉さん(八十五歳、南砺市)をお訪ねした。
「わしが住んどった家は、すぐそこのホラあの家ですわ」と、水田の先を指差す。その家から目と鼻の先のこの家に、請われて養子縁組を結び、終戦後結婚した妻とともに、移ってきたのだという。義母に当たる人は、既に数週間前に亡くなっていた。以来、義父を助け、田畑を耕して子を育て、今日の吉尾外吉さんがある。
扇風機を回し、冷たいお茶を進めながら、外吉さんは思いがけず手にした懐かしい写真を前に、ポツポツと子どもの頃のことを話しはじめた。
外吉さんの実父山本理兵衛さんは、伍長として兵役を務めた後、立野ヶ原陸軍演習廠舎の管理人として廠舎敷地内の官舎に家族とともに住み、建築物の修理や冬期の雪下ろしなど、廠舎全体の管理に携わっていた。元大工でもあり、頼りにされていたという。
「現在の城端中学校の門は、昔の炊事場辺りかねぇ。昔は、門から少し下がったところに将校の官舎があって、その隣にわしらの住宅がありました。井戸が今も残っとるね。いっしょに写真に写っとるこの子は近所の外茂二や。二、三人で鬼ごっこなどして、よくいっしょに遊んどった」
と、外吉さんは当時を思い出すように目を細める。
外吉さんは大正十四年生まれ。男三人、女一人の四人きょうだいの二番目である。昭和五年、五歳の頃から、十五歳で親元を離れるまで、廠舎周辺が外吉さんの生活の場であった。
「兵隊が演習に来るのは夏場だけ。雪が解けて四月頃から秋の十月頃までだねぇ。金沢の第七連隊、鯖江の三十六連隊、敦賀の十九連隊……。富山からも十二里の道を歩いて、途中で一服して兵舎に入った。落伍する人もあったそうや。金沢からは金沢往来、昔の殿様道を歩いてきた。高宮辺りで休んでから、兵舎に入った。兵舎は上手に四棟、下手に六棟あって、真ん中に幹部舎があった。西側に厩があって、兵士は演習から帰ったら、真っ先に馬の手入れをしていましたね」
小学校四年生くらいになると、学校帰りを待って仕事をさせられた。どこの家でも、当時は当たり前だった。
廠舎の門のすぐ前に、店が二軒あった。菓子やたばこなどを売り、注文を取って、当時は珍しい洋食を作っていた。外吉さんは、この店の手伝いをしていた。
「学校から帰ったら、兵舎の中へサイダー、がや豆などの菓子を売りに行った。それから将校宿舎へ、オムレツ、カツレツなどの注文取りに行きました。そんなハイカラな食べ物を知ったのは初めてでした。兵士たちが食べるのは廠舎内のうどん屋、餅屋です。酒保と言って酒屋もあって、これが演習帰りの兵士の楽しみだった」
二十日間ほどの滞在期間中、兵士たちは近くの山田川で洗濯をし、兵舎に干した。蚊帳を持ち出し、網代わりにして魚捕りをする者もいたという。もちろん、蚊帳は破れて、使い物にならなくなった。
厩でも、エピソードが生まれた。兵士が将校の大事な馬を手入れ中、うっかり放してしまい、金沢の連隊から「馬がかえってきたぞー」と連絡が入ったという。水飲み場に足を入れて骨折した馬が、軍用トラックに乗せられ、帰されたこともあった。
近所の人たちはせっせと土手の草刈りをし、干し草にした。保存しておき、売るためである。監視の目をくぐってタマ拾いもした。
昭和十九年五月、外吉さんは志願して海軍に入隊。兄はスマトラへ出征し、弟は航空隊へ。いずれも、廠舎の前から旅立った。
まもなく終戦。兄は無事に帰還し、閉鎖された陸軍演習場あとに結成された開拓団に入り、家族とともに入植した。その後、外吉さんは結婚し、近くの家に養子に出る。
忙しくて、久しく跡地を見に行くこともなかったが、
「ここにおったがやけど、まるで変わってしもた」
城端中学校の前に立った外吉さんの感慨はひとしおである。立野ヶ原演習場があったことを、歴史として伝えてほしいと、吉尾さんは願う。

[談・吉尾外吉(元立野ヶ原陸軍演習廠舍居住)文・本田恭子]

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過程が誇り

入道忠靖さん(「砺波に疎開した大澤雅休展」実行委員長) 「砺波に疎開した大澤雅休展」実行委員長入道忠靖さん

また、あの暑い夏がやってくる。東京をはじめ全国の都市が次々と空襲に焼かれ、長崎、広島への原爆投下で終戦に至った昭和二十年八月十五日。疎開先でこの日を迎えた子どもたちは、既に七十歳代後半の年齢となった。
「太田村史」(現・砺波市太田)に、当時の太田国民学校に学童疎開していた東京都渋谷区大和田国民学校六年の児童が、二十年後、同級生だった地元の入道忠靖さんに宛てて思い出を綴った文章が、掲載されている。家族と別れて眠れなかった夜行列車のこと、太田村の印象、宿舎となったお寺での生活、旺盛な食欲、シラミ騒動、オチョーハイ(村の家での一泊招待)、吹雪をついての馬鈴薯調達……等々、つらかったことや楽しかったことがあれこれ綴られ、「よい経験となったが、このような事態が私達の子どもの上に襲いかからぬ世界をつくらねば」と、結ばれている。
「太田村史」はまた、学童疎開の引率教員として派遣された書家大澤雅休が、地域に及ぼした文化的な影響の大きさについても、記している。
雅休がしばしば訪れていたという、当時の村長、入道忠昭氏の子息、入道忠靖さん(七十七歳、砺波市)に、記憶に残る大澤雅休について、お聞きした。入道家は、砺波地方の典型的なアズマダチ民家としても有名で、富山県指定有形文化財となっている。見事なワクノウチの広間で、昭子夫人ともどもお話を伺った。
「いろりの縁にどっかと座り、里芋の田楽をうまそうに食べていましたね。おやじ、おふくろと一日中でも話していましたよ。おやじは俳句や漢詩も作ったりしていたので、歌人でもあった大澤先生に推敲してもらっていたようです」
小学生の忠靖さんの目に映った大澤雅休は、平然と慌てず、ゆったりした人物だったらしい。
「いろりの前であぐらかいて、いつも前がはだけているもんで、目のやり場に困ったのを覚えています。火の粉が飛んでも、悠々として払わず、話し方も慌てずでしたね」
大澤雅休は明治二十三年(一八九〇)、群馬県高崎市の生まれ。若い頃は俳句、短歌に没頭し、自らも「野菊短歌会」を作り、文学に打ち込む。その後、生涯の師となる比田井天来と出会い、四十三歳にして書家を志す。昭和十三年(一九三八)、「平原社」を結成。昭和二十年(一九四五)四月、渋谷区幡代国民学校の学童疎開を引率し、太田村光円寺の寮長として赴任。同時期、福光に疎開していた板画家棟方志功とも親交を持ち、そのひたむきな芸術観に共感し、前衛的な「墨象」の先駆者としての道を歩み始める。
終戦後、一旦は東京に帰るが、戦災で住む家もなく、富山へ頻繁にもどっては、安念家や入道家、光円寺などを訪れ、多くの書を残した。書道講習会を各地で開き、弟子たちと熱く書を論じ、表立雲をはじめ、優れた書家を輩出し、影響を受けた多くの県民がいる。
福光に生まれ育った昭子さんは、棟方志功の子たちと友だちだった。
「福野高校時代の先生が大澤先生の弟子だったので、昭和二十五年八月の書道講習会を受講させてもらいました。棟方志功の家で記念写真を撮ったのが、ホラこれです」
と、セピア色の写真を卓上に示した。セーラー服の美人が三、四人と弟子らしき青年が三、四人、前列には面を着けた棟方志功と、その隣に大澤雅休、膝前の床には画仙紙の大作が横たわり、後ろの壁にも雅休の墨象が異彩を放つ。部屋の様子はまぎれもなく、現在「鯉雨画斎」として移築保存されている、棟方志功の居宅である。
「文部大臣賞など、受賞者が多数出ました。夢や目標があって楽しかったですね」
と、昭子さんは振り返る。この頃、志功と雅休との合作が多く、互いに刺激し影響し合ったことが窺われる。
昭和二十六年六月の講習会を最後に、雅休はふるさと群馬に戻り、二十八年(一九五三)、六十三歳で生を閉じた。
今年十一月、入道さんたち有志は砺波市美術館で「砺波に疎開した大澤雅休展」を開催する予定だ。雅休を偲び、日本の墨象芸術を築いた過程が、砺波にあることを誇りにしたいという。
「まず古典をしっかりやれと、いつも言っていたそうです。保守的な太田の風土によって、雅休の中の新しいものがポンッと出た。平然とした中で芸術性を高めていった、目に見えない情熱を見習いたいです」
喜寿を迎えて穏やかな表情の入道さんだが、声には力強い意志が感じられた。

[談・入道忠靖(「砺波に疎開した大澤雅休展」実行委員長)文・本田恭子]

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