富山写真語 聞き書き万華鏡

人間性を育む

吉崎四郎さん(元富山県民生涯学習カレッジ学長) 元富山県民生涯学習カレッジ学長吉崎四郎さん

三寒四温とはいうが、三月に入ってから雪を見る日が多すぎる。未曾有の地震被害となった三月十一日の「東日本大震災」の被災地では、どんなに心細く、不安に押しつぶされそうなことかと、ただただ心を痛めるばかりである。日本全国、世界各国からの応援を糧に、ぜひとも元気に立ち直っていただきたいと、願わずにはいられない。
地震・津波・放射能の三重被害は、今なお収束を見ないが、国民あげての熱い助け合いのネットワークが、幾層にも重なり合って、支援の手を差し伸べている。ボランティアだけではない。スポーツやアート、ITなど生涯学習でつながる多くのネットワークが、互いの得意分野を活かし合って、心を一つにしている姿が見て取れる。
その日も、雪こそ舞っていないが、肌寒い日だった。ひっそりと時間が流れる住宅地に、吉崎四郎さん(八十二歳、富山市)をお訪ねした。
吉崎さんは、日本で生涯学習の実践に取り組んだパイオニアともいえる人である。教育県、進学県と評される富山県で、県をあげて生涯学習の推進に取り組み、その拠点となった「富山県民生涯学習カレッジ」の学長として、数々の実績を積み上げてきた。
「県民カレッジは、私のすべてです」
と言い切る吉崎さんに決定的な影響を与えたのは、大学の先輩であり、第九十五代文部大臣を務めた教育社会学者、永井道雄さんである。
「美学をやりたかったので、京大文学部哲学科美学美術史というところに入ったんです。そこの先輩が永井先生で、僕は勝手に兄か親父のように慕っていましたね」
卒業後、富山県で高校教員を経て、文化行政に携わっていた吉崎さんに、永井先生から連絡が入った。
「大分県のシンポジウムに、パネリストとして話しにきてほしいというんですよ。若僧の僕に何で、とうれしくて」と、吉崎さんは五十年前を思い出して顔をほころばせた。
一九六五年、フランスのポール・ラングランが「生涯教育論」を提唱して以来、日本においても「社会教育」から「生涯教育」へと、教育機会の拡大が模索されていた。
「その後、イギリスで『生涯学習振興法』ができたんですよ。生涯学習っていうのはいいなと思って、永井先生に使っていいかと相談したら、うん、おもしろいねと。『生涯学習』という言い方は、そこから出てきたんですよ。当時の村上(元之助)教育長も、それはいいと言われて。背中を押されましたね」
こうして日本に先駆け、富山県の「生涯学習」が走りはじめた。
「最初に使ったのはイギリスだけど、広めたのは日本、富山県です。その拠点となったのが、富山県民生涯学習カレッジ」と、吉崎さんは胸を張る。
昭和四十八年(一九七三年)、村上教育長の後を継ぎ、幼なじみの中沖豊氏が教育長に。翌昭和四十九年、永井道雄氏が文部大臣に就任した。
「永井先生が全国で講演される時に、富山県の例をよく出していただいた。おかげで、生涯学習先進県として、全国から注目されるようになった」
昭和五十五年(一九八〇年)、中沖豊氏、富山県知事に就任。
「欲しいという予算を、すべて付けてもらった。これは大きかった。省庁の各会議に引っ張られて、出れば出るほど顔がつながった。つくろうとした人脈ではなかったが、いい結果を生んだね。意見が通りやすくなって、思うこと、考えることを、すべてやりきった」
白髪の吉崎翁は、満足げに語った。しかし、一つだけ気にしていることがある。
「部下から、『いつまでも、生涯学習け?』と自嘲気味に言われる。どうも指導者としてはカッコがつかない、安っぽく見られるというんですね。かなり悩んだ人もあると。もしも新しい人材が出て『生涯学習』に異論が出たら、わたしはもう黙っていようと思う。日本は学歴社会の匂いが強い。しかしカレッジの卒業生と付き合ってくると、教養豊かで、言わなくても分かるようなところがいい。それが、生涯学習の成果、人間性を豊かに育むということだと思う」と、吉崎翁はゆっくりと茶をすすった。

[談・吉崎四郎(元富山県民生涯学習カレッジ学長)文・本田恭子]

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~この人ありて・万華鏡~ 斉藤善夫さんと梵鐘研究

二上山の平和の鐘と鐘楼 二上山の平和の鐘と鐘楼

南砺市の高野山真言宗の古刹安居寺は、同市安居にある。この寺院のある安居は、砺波地方では「やっすいのかんのんさま」として親しまれているが、地元で飄々と住んでおられる梵鐘研究家斉藤善夫氏は「やっすい」は誤りであり、「やすい」と呼ぶべきであるときっぱりと言われる。歴史的にも加賀藩の老女今井の局が安居寺にあてた書状にも「やすい」とあるという。大正九年生まれの斉藤さんは、学問に関しては実に頑なで実証的な人でもある。実は私は、斉藤さんとは親子のような世代の差があるが、石造物や宗教などを歴史考古学的視点でみる点で、共通点も多く古くからご教示を得てきた。また地元安居や安居寺に深くこだわり続けられる点にも共鳴してきた一人でもある。
平成十年に、北陸石仏の会から『富山・石川梵鐘考』が上梓され、その初めに「瑞龍寺蔵旧安居寺鐘」の報告があり、高岡市の国宝瑞龍寺法堂鐘点棚に掛っている古鐘が、安居寺から到来したもので、その経緯や銘文の解釈など従来の定説に一石を投じる名論文である。この調査には私も同行したが、銘文の追刻など細かい点の調査姿勢に根気負けするくらいであった。結局この梵鐘は天文十三年に安居寺に掛けてあったものとして結論付けられている。
また『続富山・石川梵鐘考』が出版されたのが、平成十三年であり、一頁には「金属類回収令と富山県の梵鐘始末」が掲載されている。これは「聖戦と称えて驀進した日支事変に始まる第二次世界大戦ほど(梵鐘)の佚亡は無かった。この時、国権を以て国の施策として金属特別回収を強行し、当時県下千七百寺院教会の保有した推定二千口を超す大小の鐘が、小数を残して僅か数年の間に姿を消したのである。」金属回収令によって、信仰の重要な対象物である鐘が戦争に駆り出されたその経緯を公布された法令・訓令・通牒や新聞報道などにより克明に年表化され、国家総動員法に始まる各種協力団体の動向と献納と供出の準拠、そして推進した団体や組織など調査されている。
また供出を免れた梵鐘もある。それは国宝及び国宝に指定申請中のもの、重要美術品認定物件及び認定申請中のものであるか、また慶長末年以前つまりこの時より三百年以上前鋳造年限が経過したものについて、無条件にこれに準じたらしいとされている。県内では二十六口が供出免除になっており、つまり生き残ったのである。しかしその他にいろんな理由で遺存する鐘もあり物語もある。
多くの梵鐘の供出は、昭和十七年から十八年の春にかけて実施されたが、従軍・徴用のために村には青壮年の男子が少なく、収容業務は難渋を極め、事前の調査などほとんど行われなかった。梵鐘の側にしてみれば戦争という大津波にあったような大惨事である。斉藤さんは資料や情報の無い状態から、それを一つ一つ丹念に愛情をもって調べ上げられ世に出されたのである。これは辛苦な作業でもある。この『続富山・石川梵鐘考』の次の論考が「安居寺の鐘」であり、自分の住む地と安居寺を常に意識され続けられ、郷土愛と歴史考古学への深い愛情を感じた。

[文・尾田武雄]

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将来への発信

高山茂樹さん(魚津市教育委員会生涯学習・スポーツ課文化係長) 魚津市教育委員会生涯学習・スポーツ課文化係長高山茂樹さん

五月晴れというには暑い。波ひとつない海岸線に釣り人が一人、ゆっくりと竿を出す準備に取りかかっていた。
「何が釣れるんですか」
「きのう、カレイが釣れたといってた…」
「波がまったくないですね」
「うん、こんな日は珍しいね」
しんきろうロードとして整備された海岸通りは、緩やかなカーブを描きながら魚津港へと続く。
かつて「浜」と呼ばれたこの一帯は、多くの漁船や交易船で賑わっていた。男たちに交じって漁師の女房たちも、荷を運ぶ仕事に就いていたという。その頃の活気を思い出すかのように、米倉が一棟、きょうも海を見続ける。
大正七年(一九一八)の夏、米価急騰に喘いでいた漁家の主婦たちが、北海道へ向かう輸送船に米を積み込まないでほしいと、この米倉前に集まった。全国に波及した「米騒動」の発端である。当時、十二銀行の所有であったこの米倉は現在、地元水産会社の所有となり、漁具倉庫として使用されている。大正三年建築の土蔵造りで、近年老朽化が進んでいた。西頭徳三前富山大学学長など専門家を招き、地元で学習会を重ねてきたNPOなど、市民から保存修復を望む声が高まっていたのを受け、魚津市教育委員会が労を執り、約六カ月の工事を経て、咋年三月、無事に修復を終えたところである。
魚津市教育委員会で、米倉の保存修復を進めて来られた文化係長高山茂樹さん(五十四歳、魚津市)に、その経緯などを伺った。
「ご承知の通り、民間の所有物に公の予算は付けにくい。以前には、買い上げも検討されましたが、魚津市にはその資金がない。しかしこのまま放置したら、壊れてしまう。そこで平成十八年、(社)富山県建築士会魚津支部に依頼して米倉の中の図面をつくってもらった。海側の面(西面)は壁をつくって破損を防いだのですが、南側の石積みモルタル塗の壁がこわれてきた。もう、何とかせねば危ないという状態に来ていました」
そこへ、異動で魚津水族館から高山さんがやってきた。
「わたし自身は大阪の出身です。祖父母が富山の人で、大阪に出て商売をはじめたんですね。子どもの頃から化石が好きで、大阪市立自然史博物館の友の会に入って、三年に一度の長野県野尻湖の発掘調査に参加していました。大学受験の時にも調査があって、富山大学入試を受けた足で野尻湖に行き、帰りに合格発表を見るという具合でした」
と、高山さんは富山との縁を語る。昭和五十六年、魚津水族館のオープン以来ずっと、学芸員として貝などの軟体動物を専門にしてきた。
「歴史民俗学的なことも好きなので」と、異色の文化係長は意欲を見せる。懸案となっていた米倉の修復について、民間で申請できる補助金を受けるために、水産会社と覚書きを取り交わし、保存に向けた市の役割を明確にした。
補助金の申請には、説明看板や南面の石積みをジャッキで持ち上げる費用も盛り込まれた。
「外観の写真が残っていないんですよ。覚えている人もいなくて。それで、多くの土蔵の例に習って板張りにしたんですが、西側の古い板を外したら、漆喰壁が現れた。漆喰だったのかもしれないと、黒板張りの下にそのまま残してあります。瓦も外すな、とできるだけ残しました。屋根は柱と柱の間が下がって、波打っているんですが、瓦屋さんが少しでも真っ直ぐにと、雪を除けながら重ね葺きをしてくれました。めったに扱えない仕事だからと、職人さんは技を学ぶために、料金度外視でしたね」
南面の壁も大仕事だった。七百二十個の石を全部外し、柱だけにしてジャッキで上げる。玉石はナンバリングして外し、コンクリート基礎を施して再びもどした。柱を石に固定する「目かす釘」など、職人の知恵の深さを知ったという。
「職藝学院の上野幸夫教授の指示で設計図を書き直し、工期が雪の季節に入って大変でしたが、いい修復ができました。国の登録文化財になればいいと思いますが、所有者の気持ちが大切ですから。見学についても、所有者の意向を聞きながら、仲介役を務めさせていただいております」
「一度失うと元にもどせない。歴史も自然も同じです。将来に残したいものを、それぞれの視点で発信していけたら」と、高山さんは熱い願いで、話を結んだ。

[談・高山茂樹(魚津市教育委員会生涯学習・スポーツ課文化係長)文・本田恭子]

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