富山写真語 この人ありて・万華鏡

薬用植物と出町幸男さん

出町幸男さん(富山県薬事研究所 次長) 富山県薬事研究所次長・富山県薬用植物指導センター所長出町幸男さん

富山湾が望める上市町の広野台地を、山側に進むと穴谷霊水の看板が目に入る。その奥に新緑がそよぐ林がある。富山県薬用植物指導センターに入ると左手には薬用となるサイカチ、クスノキなどの樹木が茂り、その向かいに本館などの施設がある。
「天然物は医薬品開発の元となっており、天然物そのものや天然物から生み出されたものが薬になるんですよ。それも大半は薬用植物からです」と、きっぱり話されるのは、薬事研究所と称する国内唯一の公設機関である富山県薬事研究所・次長の出町幸男さん。
ながらく食品衛生や薬事行政に携わり、食品や医薬品の安全・安心の確保にかかわってこられた。このセンターの所長を兼務している。
「ここには千百種もの薬用植物(種子も含めて)を栽培又は種子を冷凍保存しているんですよ。村上守一さんら先輩のご苦労のおかげです」と、元所長らの功績をたたえながら、これらの貴重な資源の有効活用を図るべく、二つの組織の連携を推進される立場にある。
貴重な薬用植物のひとつ、芍薬だけでも試験圃場に二百三十種も栽培されている。現在、センターと薬事研究所とが連携して、センターで栽培されているシャクヤクの中から優良品種を見出す研究を行っている。
「シャクヤクは、漢方薬の多くに処方されている基本となる生薬です。ここの若い田村研究員が栽培試験の結果得られたデータを基に、薬事研究所で品種ごとに成分の分析と、薬効評価をできることが強み。富山ならではの取り組みです」とのことである。
ここ数年間、日本の経済活動が閉塞状態であるにもかかわらず、富山の医薬品生産額が毎年四?五パーセントの伸びを示しているのは、富山の薬の伝統、地道な努力の積み重ねのおかげであろう。事実、平成二十一年の統計でも、富山県の医薬品生産額は埼玉県に次いで堂々の二位。人口一人あたりでは群を抜いて一位である。
「昭和四十九年に国からGMP基準が発出され、富山の製薬企業は頑張って対応してきた。なんといっても富山の基幹産業だったこと。多くの製剤について高い製造技術を有していた。平成十七年の改正薬事法の全面施行により医薬品の受託製造が大幅に拡大したことや、国のジェネリック医薬品の使用促進策が今日の活気につながりましたね」
富山の進取の気性が先行投資となり、実ったといえよう。
富山の薬は三百年以上の歴史を有するが、当初から反魂丹等の漢方薬に用いる生薬の多くは輸入品であった。それは現在も変わらないという。我が国で漢方薬や生薬製剤に約二百五十種類の薬用植物が用いられているが、国内で栽培されているのは八十種類である。そのうち、国産品が生薬使用量の五十パーセント以上を占めているのは二十種類に過ぎない。そのため、昨年の実績で輸入品の比率は八十八パーセント。そのほとんどが中国だという。
「薬用植物の栽培は、使用できる農薬が制限されていることから除草等がたいへん。さらに、収穫や生薬への調製加工にも多くの手間がかかります。そのため、中国から安価な生薬が輸入されて以降、県内の薬用植物の栽培は下火になっていましたが、近年、休耕田や耕作放棄地に薬用植物を栽培しようとする気運が高まりつつあり、うれしく思っています。センターでは、すでにシャクヤク、トウキ等二十一品目の栽培法を確立しており、さらに、薬用植物の栽培普及を図るため、栽培品目の拡大や高品質・高収量の栽培法の確立に取り組んでいるところです。ただ、富山の気候風土に適した薬用植物のなかで付加価値の高い、採算の取れる品目を選抜すれば、転作作物としての可能性は大きいし、なによりも原料生薬を自給できるようにすることは、有事に備えるためにも重要でしょう」
将来の目標としては、県内で生産された生薬を富山の製薬企業に医薬品原料として使用してもらうこと。ただし、薬用植物については遺伝子組み換えが認められていないことから、シャクヤクを例にとると植えてから根を収穫するのに四年もかかる、文字通り「根気」のいる作業である。
この秋十月にはWHO薬用植物保護の国際会議が富山で開催される予定である。先進国と発展途上国の温度差が取り沙汰されているが、その際の見学コースとして、この薬用植物指導センターが目玉となる。そのための準備でスタッフのみなさんは多忙であるが、富山から薬用植物を世界に向けてアピールするまたとない機会であり、未来に大輪の花を咲かせてほしいものである。

(編集長・記)

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松桜閣の幸運

川村昭一さん(若栗地区自治振興会長、NPO法人松桜閣保勝会副理事長) 若栗地区自治振興会長、NPO法人松桜閣保勝会副理事長川村昭一さん

一階二階をぐるっと取り囲む雨戸はすべて一カ所に収納される仕組みになっている。直角にくるっと角度を変え順次送られていく雨戸はカラクリを見ているようだ。始まりの三十分前だというのにすでに十人以上の人が集まり、ショーのような雨戸の収納の様子を楽しんだ。
七月九日、ひと月あまり前に復元竣工式を終え、今日は黒部市主催の見学会が開かれるという松桜閣での一コマ。見学会は定員三十人のところ、五十人が参加する盛況振り。セミの声が降りしきる中、職藝学院教授、上野先生の説明にみんな熱心に耳を傾ける。傍らに、その様子をにこやかに見守る川村昭一さん(六十八歳)の姿がある。
若栗地区自治振興会長であり、NPO法人松桜閣保勝会副理事長でもある、復元実現の鍵となる人物のお一人。富山県内には、松桜閣と同様、補修を必要としながら、手を加えられないまま朽ち果てようとしている建築物が少なくない。そんな中、見事に復元を果たした松桜閣は幸運としか言いようがない。どうやって復元までこぎつけたのか。正直に言うと、どうやって資金を集められたのか、そこのところだ。期待を汲み取ってか、川村さんはざっくばらんに語ってくださった。
「老朽化が進んで、また、シロアリの被害が大きいことがわかりました。若栗地区でも何とかしたいとずっと(市へ)陳情を続けてきましたが、なかなか、ご理解を得られませんでした」
しかし、転機が訪れる。舞い込んだ北陸新幹線の計画。黒部駅が松桜閣から二百三十メートルの場所に。若栗地区自治振興会は復元に向け積極的に動き出す。黒部市に働きかけるが、事はそう簡単には運ばない。特に壁となったのが「寺の敷地」に松桜閣があることだった。特定の宗教に肩入れはできないというのが市の言い分。でも若栗地区はあきらめなかった。
川村さんが自治振興会長に就任された年、平成十九年、
「それでは、と、寺と分離してNPO法人松桜閣保勝会を立ち上げました」
あの、サラッとおっしゃいましたが、NPO法人の立ち上げってそんなに簡単にできるものなんですか?
「そう言えば、規約からして五十五ページもありました。一字一句違ってもその都度、市や県の担当者からご指導をいただき、何回も手直ししました。でもその時のことがあって、全部頭に入っていますので、何を聞かれても困らずにすみます」
と、当時のご苦労を懐かしむように語られる川村さん。
NPO法人の立ち上げと前後して、市町村合併の選挙で黒部市は新体制になる。新幹線が追い風となり新市長の理解を得たことから、話は一気に進んでいく。市で費用の三分の二を負担してもらえることになる。長年の働きかけ、ご苦労が実を結んだ瞬間。
さらに最初の民間業者の見積りでは九千万円だった修復費が、上野先生とのつながりから職藝学院で五千五百万円となり大幅に減額となる。
さあ、そうなると、前に進むしかない。残された三分の一、千八百万円の寄付金集めに、松桜閣保勝会、若栗地区自治振興会のみなさんが一丸となった。
「うれしかったのは、若栗地区ほとんど全てのお宅から寄付金をいただけたことです」
目標八百万円だった若栗地区寄付金額は千百万円にも上った。
また、たまたま同級生と飲んでいたところ、名家の古材の門のまたとない逸品が廃棄されようとしていることがわかり、復元松桜閣の門として甦るという、神様の応援と思えるようなおまけもあった。
北陸新幹線の開通が復元事業を大きく動かしていったことは間違いない。しかし、松桜閣にとって川村さんに出会えたことも大きな幸運だった。なぜなら、地域の信頼が厚く、幅広い人間関係を活かして各方面に働きかけ、実務に強く、あきらめずに復元をめざしてくれる、そんな条件のそろった人は、そうそういないからだ。
だがこれからが大変。庭の補修、建物の維持管理、ボランティアガイド、次世代の育成と、多くの課題が川村さんの肩にかかる。松桜閣はまだまだ、川村さんを手放さない。

(税光詩子・記)

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有望株一年生

神田信孝さん(農家) 農家神田信孝さん

車のドアを開けるとたちまち八月の熱気が入ってくる。立って見渡すと、空が、広い。その広い空を高清水山系の山並みが縁取る。熱い日射しが照りつける一方で、遮るもののない平野を青田風が、ときおり吹き抜ける。
散居村のど真ん中、南砺市田尻。訪ねたのは神田信孝さん(六十七歳)のお宅。麦わら帽子の笑顔は真っ黒に日焼けして、まちがいなく「農」の人だ。人なつっこい笑顔は初対面なのに、以前にどこかでと思ってしまうぬくもりがある。畑仕事の手を止めていただき、野菜作りについての話を伺う。
「本の通りにはいかないですね。まだまだ勉強不足です」 と初っ端から生真面目な性格がのぞく神田さんは、去年の秋から野菜作りを始めたばかり。
昨年六月に、長年暮らした東京の家を引き払い、終の棲家と決めたこの地に。工業製品のものづくりをしてきた六十五歳までの「町の暮らし」から一線を画し、田舎に越して野菜作りをやろうと、それは以前から決めていた。奇しくも、ご子息お二人が、相次いで北陸に居を定められたことから、追いかけるように富山へ。自分の足で探して、見て、この地に決めた。
実際にお暮らしになっていかがですか?
「いいですねえ、この辺はけっこう同年代の農業者がいらっしゃって話がしやすいし、雰囲気がいいんです」
のんびりと野菜を作るつもりだった。息子家族、親戚に、とれた野菜を配って喜んでもらおう、それだけだった。ところが、だんだん、のんびりというより今は「ガチ」な野菜作りになってきた。路線変更の訳には、ご子息のお一人が、井波瑞泉寺近くにイタリアンレストラン、ミッレ・プリマヴェーラを開く三谷シェフだということが深く関わる。
昨年二月の開業以来、連日にぎわう人気のこのお店、特にランチタイムの野菜料理のビュッフェは好評。十数皿ずらっと並ぶ、野菜料理は壮観。どの料理も旬の南砺市産無農薬野菜を使う。「地産地消」は欠くことのできないポリシーの一つ。
三谷シェフに「好意で」野菜を届けるうちにだんだんと注文がつけられるようになる。葉物に泥が残っている、と言われ、毎日、冬場の冷たい水で徹底的に水菜を洗った。他にも、当日使える分だけでいい、大きさを揃えてほしいなどの要望が。野菜の味も当然チェックされる。
だが、その厳しい注文が、生来の負けん気に火をつける。シェフの依頼に応え、今年の夏物野菜は、イタリアン用のトマト数種、白い茄子、など幅広い品種に挑戦、畑は色とりどりに賑やかだ。
もとより、どうせやるなら、無農薬、有機肥料栽培と決めていた。だから雑草も元気に生い茂る。炎天下での除草作業は甘くない。だが農薬を使わない場所を虫たちは歓迎。周囲の水田も農薬を使われないことから、時節には蛍が乱舞する。今年は家の中にまでたくさん舞い込み、遊びに来たお孫さんたちを喜ばせた。
「ハプニングの連続です。黒豆を植えたんですが、周りの農家は一向に植えない。どうしてかなって思っていたら、大風が吹いて新芽が大方やられました。『だから周りを見ないと』と言われて、なるほどと思いましたね」
野菜作りの師と仰ぐ蓑口氏が隣家に。その関係で、南砺市南相馬訪問団の民間メンバーの一人として震災後間もない現地へ。以来、すでに三度も足を運ぶ。八月初旬、南相馬市から訪れた子どもたちの三泊四日のキャンプにも、若い指導者たちに混じって寝起きをともにした。畑作りの師匠には逆らえません、と、笑う神田さん。
ご子息のつながりから、無農薬野菜をつくる農家の知り合いもだんだんと増えてきた。知りたいことは山ほどある。だが、難しさがわかればわかるほど、プロの技を教えてほしいなどと、簡単に口に出来ない。時間をかけて少しずつ「盗んで」いくつもりだ。
「見た目が同じトマト、なのに味が違うんですよ」
悔しそうな言葉の端々にこれからへの意欲が滲み出る。
夫人の緑さんお手製の梅干しをいただきながら、一直線なところが息子さんの三谷シェフとそっくりでいらっしゃいますね、と申し上げたら、意を得たりというように「そうでしょ」。夫人が微笑まれた。

(税光詩子・記)

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水引の道案内

宮口茂さん、宮口繁美さん 宮口茂さん、宮口繁美さん

JR石動駅の前の通りを向かって右に折れ、三十メートルほど歩いたところに「結納記念品 宮口」の看板が掛かる。お邪魔した時、入って来られたお客さんが、一枚お願いしたい、とおっしゃった。店のあるじ、宮口茂さん(七十六歳)に後からお尋ねしたら、獅子舞などご祝儀に振る舞われる「○○さん江」のあの華やかな花紙の依頼とのこと。秋祭りが始まる今はシーズンということらしい。
店の中央のショーケースの中は結納、結婚式用の松竹梅、鶴亀をあしらった水引が掛かる紅白の祝儀袋が並んでいる。私事だが、自分の結納の時、この立体的な水引を見て、「引き返せないな」と思ったのを思い出した。華やかな飾りは「もう決まり事ですからね」ときっぱり言い放ち、逆にこちらに迫ってくるような迫力がある。
結納の仕事は、品を納めるだけでなく、作法全般のわきまえを教えるコンサルタント的な役割も大切とのこと。
「(結納の)相手先の玄関に一歩入って出てくるまで、ひと言ひと言、一挙手一投足、全てのしきたりの質問に応えられるようでないとこの仕事は出来ないですね」
茂さんの口調には長年、「結納」という慶事を慶事としてつつがなく収めてきた、誇りと自負が感じられる。
「子どもの頃、一ミリでも折りがずれると父に厳しく怒られ、手伝ってるのは私なのに、と、思いましたね」
と語るのは、茂さんの娘さんであり、北陸で初のラッピングコーディネーター、宮口繁美さん(五十一歳)。
「包む」楽しさを北陸の地に広めてきた第一人者。北陸を中心に多くのラッピング教室を立ち上げ今年で二十年を迎える。企業への包装技術指導、カルチャー教室を中心に、多方面に活躍を広げていらっしゃる。
お話の中に高校生時代のアメリカ留学中の体験もあって、と、何度かその言葉がよぎる。
三十三年前、まだ海外旅行も行く人も数少ない時代、高二の繁美さんは一カ月の留学を親に願い出る。一ドル三百六十円の時代の不安も計り知れない留学を両親は許してくれた。意気揚々と異国に旅立った繁美さんだが、ホームステイ先のママに、まず訊ねられたのが親の職業。日本独特の父親の職業を、全く説明できない。ママの提案で手がかりを探すため、図書館に通うこととなる。当時の米国の図書館には日本についての本は皆無だった。探し続けて、三つ目の図書館で見つけた本の中の一枚の写真。漆黒の中に浮かび上がる職人の手。金銀の水引を鮑結びにする美しい手先が、脳裏に焼き付く。
写真を手がかりに、ママは父親へのおみやげを買おうと、あるビルに連れて行ってくれた。そのビルは繁美さんの度肝を抜いた。大きな建物の一階から三階まですべて包装紙やリボンで埋め尽くされ、地下一階はすべてメッセージカードが並んでいた。
お父さんの仕事は集中型で一度に忙しくなるから、時間を管理するのに広く間があって予定が書き込めるカレンダーはどうかという。当時の日本は、スケジュール管理という概念は一般的でなく、カレンダーは銀行かどこかの商店から年末にもらうものだった。半信半疑でママの言うことを聞いてそのとおりにした。
帰国への荷造り、お母さんへの一輪ざしを、中学生の妹へのスポーツタオルで割れないように包む。さらにそのタオルの周りを父へのカレンダーで巻いた。カレンダーは巻くことで折れずにすんだし、包みの補強にもなった。ママが作ってくれた合体した家族へのおみやげは、スーツケースの片隅にあつらえたようにすっぽり入った。相手の生活を見つめた品選びと機能性が見事に両立したこのプレゼントは、同様に記憶に深くしまい込まれる。
「人生の選択の中で、特に意識してはいませんでしたが、振り返ると、大きな意味を持っていましたね」
ラッピングという、包む「思い」の表現を伝え続けるうち、父の仕事である「水引」に、やはり、行き当たる。水引の歴史や文化を知りたくて、遠くは三重の鈴鹿まで足を運んだこともあった。水引は、今では繁美さんのラッピング講座の柱のひとつになった。
父上の「結ぶ」仕事の真ん中にある精神性を、「包む」仕事の中で受け継ぐ繁美さん。こよりで出来た水引、五本以上で使うのは五本の「指」を表しており、両の手でことを大切に結ぶ、との意味らしいが、お話を伺った後は、その結び目が、親から子への伝承の結び目に見えた。

(税光詩子・記)

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水引の道案内

夢創塾主宰者、長崎喜一さん 夢創塾主宰者:長崎喜一さん

新潟県との県境近い小川の上流、車一台通るのがやっとの山道を登っていくと突如小屋群が現れる。炭焼き、かまど、ツリーハウス、紙すきなどのための小屋が点在し、敷地には放し飼いのヤギが草を食む。
ここは子どもたちが夢を創るための遊び場「夢創塾」。年間二千五百人が訪れ、内子どもたちは八百人。愛知県の猿投台中学校を始め、数校の子どもたちが毎年ここで研修する。国の施設ならいざ知らず、個人が一人で作り上げた施設に、子どもたちが毎年、学校単位で訪れるのは奇跡に近い。
夢創塾主宰者、長崎喜一さん(七十歳)にとって、四月は古代米の田作りなど農作業の忙しい時期だ。その忙しい長崎さんが今年の四月、カザフスタンに十日間の旅に出た。七十歳までの自らの頑張りを記念する気持ちもあったし、何よりチューリップの原種が咲き誇る平原に心が動いた。チューリップは今は亡き母のゆりゑさんが大好きだった花だからだ。折しも、旅行中に母上の命日を迎えることに、背中を押された。
カザフスタンの現地で案内された「レッドヒル」。花で山全体が赤くなることからそう呼ばれる。花の数を数えてみる。その数概ね百五十万本、次に咲く蕾が三百万本以上。見渡す平原は五十ヘクタールはある。一平米で百株あるので、最低でも五千万株。圧巻のチューリップ大平原。
傍らを若者達の車が花を踏みつぶしながら進む。
「大将らにとっちゃ、ただの雑草ながいちゃ」
雑草として扱われるチューリップに驚く。
世界遺産の二千四百年前の岩絵の見学、地元ガイドと一緒に歩く。ガイドはロシア語しかわからない。ふと、彼の手の入れ墨の碇が目に留まり「お父さん、碇かっこいいねえ、パワーあるねえ」と富山弁と身振り手振りで話しかける。気をよくしたガイドは普通は入れない柵を開けてくれて、岩絵に直に触ることができる。感動で指が震える。その上、岩絵の向こうのがれきに案内され、幻のチューリップと呼ばれる「レゲリー」の白い小さな花を目にする。葉にヒダがあり白い紋様がある。咲く期間も一、二日でなかなか目にすることができない幻の花を、碇の入れ墨を褒めたご縁で見ることができた。
牧畜が主な産業の国、牛たちが各家庭から送り出されて牧草地へと向かう場面を見かける。「家族全員で見送るが。じいちゃんからばあちゃんから子どもからみんなして。帰ってくるとまた全員で迎えて、スキンシップ。あれなら牛も家族のためにおっぱいいっぱい出そうと思うやろうね」牛馬をひっくるめた家族の結びつきに感銘を覚える。
カザフスタンの雑草チューリップは日本と違い、種で増える。種は芽が出て花が咲くまでに七~八年と時間がかかり、自らを守るために球根がぐっと深い位置にあるという。長崎さんはかの地のチューリップのように促成栽培でない、根の深い子どもたちが夢創塾から育つのを楽しみにしている。夢創塾ではまず感じてほしい。そして、体験した自然の循環をいつか自分たちで学んで解明してほしい、と願う。
「ステイハングリー、ステイフーリッシュ」(ハングリーであれ、愚か者であれ)は先に亡くなったスティーブ・ジョブズ氏が残した言葉だが、常にチャレンジを忘れず先に進み続ける長崎さんの姿勢はその言葉を思い出させる。まっすぐに伸びた背筋、天真爛漫な笑顔は年齢を思わせない。
親戚がチューリップを作っていて、毎年、屑の球根が手に入った。それを近所の人に分け、自分でも田んぼの脇や畑に植えて楽しんでいらした母上。田んぼ脇のチューリップはもう咲かないが、長崎さんの心の中にずっと咲き続ける。天国の母上はレッドヒルの大平原を息子さんとご一緒され、満足されたに違いない。

(税光詩子・記)

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シャクナゲ寺にいらっしゃい

護國寺住職:高島清亮師 護國寺住職:高島清亮師

「花を見られてから話を聞かれた方がいいんじゃないでしょうか」
確かに。住職のおっしゃることはもっともだ。
取材というものはシーズンオフのこともある、そういうことらしいのだが、これだけ見事なシャクナゲの木々が並ぶところを目の当たりにすると、これがシーズンだったらと残念でならない。大きな木は人の身長の倍をも上回りそう。これが満開だとどんなに美しいことか。庭園では、ちょうど雪吊りの作業中。作業されている業者さんに聞くと、五人で一週間がかりの作業となるとのことだ。さらに聞くと十五年程前まではこの庭の世話をほとんど住職ご家族でやっていらしたというのだから驚く。
「仁王山護國寺」四角い漢字が並ぶ。シャクナゲの花が美しく咲き誇るお寺と聞いていても、真言宗のお寺ということでお訪ねする前は緊張した。お話を伺う前にそぞろ歩いた庭の立派さに更に緊張度を増しながら、護國寺住職高島清亮師(五十七歳)にお目にかかる。静かな雰囲気が印象的だ。
跡を継ぐ人がなくなったというこのお寺を、父上が引き継がれるということで、この寺に越してこられたのは、昭和三十九年、住職が十歳の時。魚津での一軒家暮らしで何の不足もないところへ、県境の辺鄙なところにある寺への住み替え。「なんでこんなとこにこんなんがかなと思った」とおっしゃるのはわかる気がする。
庭は今のように手は入っておらず今の半分ぐらいの広さで、御堂も本堂だけだった。それを父上、高島清祐前住職(故人)がこつこつと庭を整え、寺の増築を重ね、三十年の間に現在の「シャクナゲ寺」を作り上げられた。シャクナゲはもともと何本かはあったが、ほとんどは前住職の手によるとのこと。挿し木をして苗を育て、それを植え、枯れては植え替え、剪定し、肥料をやり、草を刈り、冬には雪吊りをし、春には雪吊りを外す。そうして徐々に庭を広げ、美しい庭園に仕上げられた。シャクナゲは先代が高野山の大学で学ばれたときの大学内に咲いていた思い出のある花だそうだ。
お父様は厳しい方でしたか、との問いに
「厳しいというより、昔の人は、芯が通っていましたね。戦争を経験してきた人は今の人と違いますよ」
多くを語られないが、父上への信頼感が言葉にこもる。
庭の随所にある石像も先代が置かれたもの。肩を寄せ合い微笑む石仏、一休さん、カエル、親子亀、猿、タヌキなどの動物の石像がそこここにおどけた表情を見せ思わずクスッと笑ってしまう。先代がユーモアセンスにもあふれた魅力的な方だったと教えてくれる。
少し行くと、観音像がある場所には石材の椅子とテーブルが置かれ、海を見ながらお弁当もOKという場所もある。見晴らしのよさは抜群。天気がよければ、一日でもここにいられそうだ。
「護國寺」「真言宗」で想像していた、威厳のある鹿爪らしい寺かも、という心配は吹き飛んだ。むしろ訪れる人を癒そう、どうぞ楽しんでいってくださいというサービス精神にあふれた風情に、どのお寺もこうならいいのにと思ってしまう。
現住職がシャクナゲ寺を受け継がれて十六年、目の前に整然と美しい庭が広がるのは、ご家族でこの庭を守り続けていらしたご苦労があってこそのことだ。「維持」するというのは、「作る」より大変なことかもしれない。住職は多くを語られない。しかし、庭がすべてを語っている。
寺の横のご自宅の前を通ると、ゴジラと愛らしい犬の石像が。これは現住職が置かれたとのこと。ユーモアセンスも父上からしっかり受け継がれている。
花のシーズンは、四月半ばから五月半ばまでの一カ月とのこと。赤、ピンク、白、微妙な色合いの花々が種類を違えて一カ月咲き誇る。後半はツツジも加わり、さらに華やかに。絶対来よう。シーズンには絶対来よう。一族郎党引き連れて、どうだ!と、この庭を見せてひれ伏せさせよう!とわくわくしながら寺をあとにした。

(税光詩子・記)

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「祈り」を伝える

滑川市立博物館主幹:白岩初志さん 滑川市立博物館主幹:白岩初志さん

滑川の海と町を見下ろす小高い丘に滑川市立博物館がある。十年前にこの建物に引っ越してきたとのことだが、かなりの広さで一階は滑川の産業、歴史、偉人などが子どもにもわかりやすいように展示されている。滑川を知りたい人はまず訪れたい場所だ。
その博物館の三階展示室で「滑川の絵馬展」が開催された。今年度、二十数年ぶりに滑川の絵馬の再調査編集が行われ、絵馬展も行われることとなった。四半世紀近い時を経て発刊された図録の名は「滑川の絵馬 その二」。その調査、執筆、編集を担当されたのが滑川市立博物館主幹、白岩初志さん(五十七歳)。絵馬展を開催中のお忙しい中お話を伺った。
「恥ずかしながら時間が経ってしまいました」
と、申し訳なさそうな口ぶりでおっしゃるのにはわけがある。昭和六十年前後に県内で絵馬調査ブームがあり平成元年に「滑川の絵馬 その一」が発刊され、それには滑川九地区のうち山加積、東加積地区の二地区の絵馬がまとめられた。が、残りの地区は発刊に至らなかった。当時は調査助手として携わった白岩さん、何としても残りの地区の図録を完成させたいという思いが今回やっと果たされ、ホッと息をつく安堵感もお持ちのようにお見受けした。
広い展示室に源平や川中島の合戦図、天照大神やヤマトタケルなど神話絡みの絵図、日清戦争図などの大作がずらっと並ぶと、それは壮観だ。普段の薄暗い神社から、明るい照明の下で大勢の人の視線を浴びて、絵馬の中の武者や兵隊さん、馬たちはこの時とばかりに張り切っているようにも見える。
絵馬の解説会で白岩さんはそう大ぶりでもない一枚の馬の絵馬の前に立ち止まられる。二頭の馬が楽しそうに戯れる絵。南方の戦地で亡くなった息子さんの三十三回忌にお母様が奉納されたものとのこと。馬は一頭でなく二頭だ。せめてあの世でかわいいつれ合いを見つけて幸せでいてほしいという親の願い。
「お母さんの思いが強く感じられ、今回の展示作品に選びました」
この一枚が絵馬の意味を改めて教えてくれる。
二十数年ぶりの調査で各地区は世話役の代が替わっていて、いったい何しに来たがけ、絵馬をどうするがけ、と不信感を持たれる地区もあったという。説明して理解を得ることで、絵馬展へ足を運んでくれる人もあり、ありがたいことです、と白岩さんは語る。
絵馬は板に描かれていて、補強するために裏に板が張ってあるのでかなり重い。その重さのままで明治・大正の時代から、落ちないように麻縄や銅線で頑丈に鴨居にくくりつけられている。その絵馬を壁面から下ろすのは大変な作業だ。中には下ろすことを断念した絵馬もあったという。七、八十年という時を経て下に下ろされた絵馬、裏面にはその年月分の埃が溜まっている。溜まるというより張り付いたようなホコリを取り払うと、奉納された時期や人、画料や作者などの大切な記録が現れることもある。今回もいくつかの貴重な発見があったとのこと。
大学で学芸員の資格を取られたのは、ずっと民俗学に興味があり、中でも残ることの少ない民衆の歴史に興味があったから。東京からUターンして滑川市に就職。以来学芸員一筋の白岩さん、今回の絵馬資料の編纂を通して、地域の「祈り」を後世に伝えたい、地域を愛し、守る心につながってほしいという願いが伝わってきた。
絵馬展が終わると、絵馬はそれぞれの地域の神社のあるべき場所に戻っていく。薄暗い神社の鴨居の上で、訪れる人に気付かれようと気付かれまいと、静かに、過去の人々の祈りを伝え続ける。

(税光詩子・記)

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