富山写真語 この人ありて・万華鏡

富山で生きる

前畑 匡伸さん(ピアニスト・作曲家) 
ピアニスト・作曲家前畑 匡伸さん

家々が波に飲み込まれていく衝撃的な映像を見た六年前の三月、自分ができることは何でもやろうと思った。すぐに郵便局に走って多少の寄付はしたが、結局、人に言えるようなことはそれくらいで、いつの間にか六年が過ぎてしまった。という私のような読者の方も少なくないと思う。「継続的な支援が必要」と、テレビから聞こえてくるけれど、日々記憶は薄らぎ、意識の中から消えている。今年、六度目となる3・11に東北エイドチャリティフェスティバルが開かれると聞くと、今も活動を継続する力にはひれ伏すしかない。
フェスティバルに今年も参加を予定している一人に、ピアニストで作曲家の前畑匡伸(まえはたまさのぶ)さん(七十歳)がいる。あの日、郡山で被災した。
「津波の映像が繰り返し流れていましたが、被害は海沿いだけではありません。郡山も震度六でした。妻と駅前を歩いていると、突然ゴーッという唸りが響き、立っていられなくなりました。いっこうに収まる気配がない。歩くこともできない状態が延々と続いたんです。あとでその揺れが四分十五秒もあったとわかりました。ただ事でない様子に周りの人はみんなざわついていました。不安になってあちこちの様子を見てまわり、自宅のマンションに戻りましたが、壁にひびが入り剥がれ落ちてドアの開閉もできず、家具が倒れ、ガラスが散乱して住める状態ではなかったですね」
店に寝泊まりし、地震から十日後に店を開いたが、商売ができる状態からは程遠かった。
「そんな時に魚津の六郎丸で暮らす妻・和子の姉からしばらくこちらで暮らさないかと声がかかり、迎えに来てもらったんです。当初は少し落ち着いたら郡山に帰るつもりでしたが、来てすぐに、お世話してくださる方があり、いくつかのコンサートを開くことができました。その後テレビや新聞で紹介されたこともあり、シャンソンを習う人が出てきました。多くの心温まる方々に出逢い、こちらで音楽活動を続けていく自信になり、永住を決心して今日に至っています」
居を定めるまで数々の苦労があったと思われるが、富山とは水が合う」と明るい。
「富山に来て三日目にできた曲『ホタルイカのワルツ』、風のざわめきを歌った『風の音・木々の音』など、自然をテーマにした安らぎの歌がたくさんできました。山と海の両方があって訴えてくる自然の力強さをすぐに感じましたね。躍動感が響いてきます」
自然だけでなく歴史や文化にも惹かれた。
「数年前、友人から誘われて念願だったオワラを見に行きました。夜更けに戸越しに聞こえてきた節回しに、横になっていた私は思わず外へ飛び出していました。年輩の弾き手と歌い手が千鳥足でゆっくりと進んでいく。これがほんとのオワラか、と感動しましたね。すぐその場で詞ができ、数日後、曲ができました。『風の盆灯り』です。オワラだけでなく各地に伝統文化が残っていることがすばらしいし、ちょっと視点を変えれば爆発力を持つ財産ですよ。富山は宝の山です」
一方で福島のことは心から離れない。昨年NHKで放送されたドキュメンタリー「風の電話」に心を動かされ曲を作った。福島に願うことは、と尋ねると「とにかく原発の問題が一日でも早く収まることを願っています」と言葉少なに語る。
川渕さんとは富山に来た年に東北エイドの支援者を通じて知り合った。以来、コンサート以外にも福島の子どもたちを富山に招待する活動に加わり、音楽や音をともに楽しんでいる。
「川渕さんは飾り気もなく一見普通のおばちゃんに見えるかもしれませんが、これまで生きてきてあんなすごい人に会ったのは初めてです。体の中にエネルギーが絶えずマグマのように動いていて、それが何か起こると、噴火するごとくすぐに支援活動へと飛んでいく。お会いするたびに素敵になられている気がします。いいことをやっていると仏様に近い表情になるんでしょう。こういう人がいることを全国に知ってほしいですね」
(税光詩子・記)

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数千なる民具の声

般林 雅子さん 
砺波郷土資料館元職員般林 雅子さん

庄東小学校三階直通のエレベーターを降りてすぐ、いきなり広がる農具の隊列にたぶん誰もが驚くだろう。ランチルームだった民具展示室はかなり広い。手前に大型の唐箕、続いて千歯こき、馬鍬、中耕除草機、田植定規等、同じ農具が何十機と並ぶ様子は壮観だ。
長年、民具の収集とカード作成に携わってきた般林雅子さん(七十歳)に研究室で話を伺う。傍らでは、学芸員の安カ川恵子さんによって白布の上に番号を書いた紙と民具を取り換えての撮影が延々と続いている。今日の作業は先の国の重要有形民俗文化財指定によって、今までまとめて撮ってあった道具を、一点一点のカードに作り直すための撮り直し作業とのこと。国の文化財指定には分類方法などの変更もあり、その度ついてまわる膨大な作業には少しため息も出るようだ。
まずはカードを拝見しようと窓際のキャビネットの中から、たまたま手に取った「田植定規」のファイルを取り出してもらう。
「昔の田植は、熟練で苗をまっすぐになるように植えていました。慣れた人はいいけど若いお嫁さんたちはまっすぐ植えられないのです。その頃(日露戦争の後)は都会へ人が流れて農業人口が減ったものですから、それを補い収穫を上げるためにまっすぐ植えるようにと農商務省大臣からお触れが出るんですね。国全体で農業を推進していたんです」
田植定規が生まれた時代背景や国の政策、人々の暮らしぶりなど、般林さんの話は淀みなくおもしろい。特別に勉強したわけでなく、この仕事に携わるうちにだんだんとわかってきたことだという。
一民具一葉のカードが入った田植定規のファイルは分厚く、これだけで四十八本分あるという。数多くあってもそんなに違いがあるんですかと尋ねると、般林さんは「みんな違うんですよ」と、にやりと笑う。
「平成十二年頃、当時館長の新藤正夫先生の方針で、同じ種類のものでも多く収集することになりました。多く収集すると比較ができるし違いが分かってくる。統計がとりたくなる。マスの大きさ、長さ、重さ、時代性、地域性など、他の地域とも比べたくなります。めんどうくさいけどおもしろい。人に言われたらやれません。自分で知りたいからやれるんです」
と、収集作業だけでなく「砺波郷土資料館収蔵の回転式田植定規(田植枠)について」という報告書をまとめ『砺波散村地域研究所紀要』に上梓されている。傍にいた安カ川さんが「般林さんは実地の調査に基づいているから内容がしっかりしているのよ」と口を添える。田植定規だけでなく、「唐箕」「中耕除草機」についても同様の報告書を発表し、今は馬鍬についての報告書をまとめているところだという。
民具というと埃っぽい品々が並べられているイメージがあるが、この展示室には清潔感がある。
「洗えるものはまず洗ってきれいにします。きれいにすると隠れていた墨書や焼印が見つかったりして、古いものだと、やった!とうれしくなりますね」
唐箕などの大型の農具にはわかりやすいところに黒々と購入年月日が書かれている。
「農具はぎりぎりの生活だった当時の農民には高価でなかなか買えないものでした。書かれた年月日はお金を貯めて農具を手に入れ、そして作業が楽になる両方のうれしさ、誇らしさの表れなんです。昔は村に鍛冶屋があり金物の部分は作ってもらいますが、木の部分は大方手作りで、できることは自分でやるのが当たり前でした。昔の農民は頭がいいですよ、ボーッと生活していません。どうしたらたくさん穫れて体を楽にできるかを絶えず考えて工夫していました。そういう人々の知恵や努力をこの手を通して知っているのは私です。それを伝えなければと思わされるんです」
手がけてきた約一万点の民具が語りかける言葉を何とか今の人に残したいという思いが伝わる。
佐伯安一先生はどんな方でしたか。
「相手が誰でも差別なく、どんなに忙しくても納得するまで根気よく教えてくださいました。民具の国指定を信じていらっしゃいましたが、生前の先生と一緒に喜べなかったことは本当に残念なことでした」
(税光詩子・記)

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守り続けた測候所

向 敬至さん 
伏木観光推進センター向 敬至さん

伏木の測候所というと海べりを想像していたが、車のナビは伏木駅から山手へ向かう坂を上れと命ずる。坂の中腹にあったその建物は、とんがり部分の鮮やかな色合いと木造校舎のような本体がマッチして辺りと違う雰囲気を醸し出している。庭の一角には「越中國守館址」と書かれた大きな石碑があって、歴史ある町だと思い起こさせる。旧伏木測候所、現在の高岡市伏木気象資料館を案内してくださるのは向敬至さん(六十六歳)。なぜ、伏木に測候所ができたのでしょうか。
「伏木には海運業で栄えた商家が多くありました。その中の一人、藤井能三が(三菱汽船に寄港してほしいと)岩崎弥太郎に頼みに行った時の条件の一つからつながっていったものです。能三が中心となって町の人たちで作ったところから始まっています」
私財を投じて日本初の民営測候所を開設し、自ら初代所長を務めたというから思い入れの深さが窺える。
「このころ(明治十六年)、測候所は新潟と金沢にありましたが富山にはありませんでした。伏木は富山湾に面し、山と海からの風があり、新潟や金沢と天候はまったく違います。江戸時代から北前船の往来で栄えてきた伏木にとって、海上交通の安全のために地元の気象観測所がどうしても必要だという思いがあったんでしょうね」
歴史ある伏木測候所だが、存続の危機もあった。
「明治二十年に民間から県営に移行しますが、その折に伏木町から年間百円の援助をするというのが移行の条件でしたが旦那衆で引き受けて援助を続けました。明治四十二年の移転の折には、町で土地を準備し寄付をしてこの地に残そうという意思が感じられます。旦那衆をはじめとした人々の地域への貢献があって続いたんだと思います」
向さんのお宅はこのご近所だそうですね。
「小学校の宿題で日記があるでしょう?夏休みも終わり近くになると休み中の天気を教わりにここに来たものです。玄関に夏休みの天気が張り出してあって子どもたちは助け舟として利用させてもらっていましたよ。その頃は何人もの職員がいたし、観測のための部屋もたくさんありました」
しかし時代の趨勢を経て平成十年についに無人化となるが、伏木の人たちは黙ってそれを見ていたわけではない。測候所の統廃合について新聞報道があるや否や、町民こぞって反対の意思表示が示され署名運動が展開された。その折には無人化反対の一助となるようにと地元知識人によって「伏木測候所沿革等に関する資料」がまとめられた。編者の前書きには、無人化が「伏木を郷土とする者にはしのび難い痛恨事」、測候所が「出来るべくして出来、活用されるべくしてされていた経過こそ重視される一事」と書かれている。
なぜ壊されずにこの建物が残ったのとの質問に、向さんは地元の有志による熱い志によって建設され、地域民が守り育ててきた測候所だからこそ、と答える。
「百年以上同じ場所で観測を続けているのは日本ではここだけです。地球の温暖化が新聞やテレビで言われていますが、その判断には長期の観測が必要なので、ここは『伏木特別地域気象観測所』と指定され国内でも貴重な観測箇所になっているんです」
 見学に来ていた親子連れの小学生に、「百年で何度ぐらい上がったと思う?」と声をかける向さんに「二十度!」の答えが。「そんなに上がったら大変だな、だいたい一度だよ」と優しい口調で話す。修復なった資料館には子どもたちがぽつぽつとやってくる
「高岡市の小学校で文化財を見て回るスタンプラリーが企画されているので休日は親子連れの姿を見かけます。校外学習でやってくる中学生は自分たちでここを選んで来ているせいか、メモを取ったり熱心に話を聞いてくれますね。私たちの子どものころと違って、今の子どもたちは小さいころから地域の学習をしているようですが、とてもいいことだと思いますね」
測候所を次代に引き継ぐことが大事と語る向さんにとって、今の子どもたちの地域学習は心強いようだ。
(税光詩子・記)

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ピラミッドの話

羽根 由さん 
㈱ PCO代表羽根 由さん

「昔、富山駅前に闇市があって正月に東京から帰ってそこを通った時に甘えびを売っていたんです。とても天気のいい日で、青空に立山、真っ白な雪の上に甘えびのピンクが映えて。しかも安かったの」
美術学校を卒業して、東京でデザイナーとして働いていた羽根由さん(六十三歳)の富山へのUターンの決め手の一つがこの日に見た「甘えび」だったという。
現在羽根さんは学術会議やイベント運営等を手掛ける㈱ PCOの代表を務める。プロフィールには県の審議委員をはじめ十指に余る肩書きが並び、県内の第一線でずっと活躍し続ける女性の一人だ。
今から約四十年前、羽根さんにUターンを決めさせたのは甘えびだけではない。その後の羽根さんの人生に大きく関わる奥野さんとの出会いがあった。
「その頃は生意気盛りで、小さなスタジオで末端の仕事をしているにしても『東京で仕事をしている』という気負いがありました。すでに富山のこの世界では奥野さんの名は轟いていましたが、最初会った時はちょっと富山の広告業界の様子を聞いておこうかぐらいの失礼な小娘だったんです。その時に、三角形を書いて指さしながら『あなたが今東京でしている仕事はピラミッドでいうとこの辺りの底辺の仕事だよね。でも富山に帰ってくるとポンと中腹に来れるよ』と言われたんです。東京生活に揺らいでいた私には、とても魅力的に響きました」
誘いを受けて富山に帰った羽根さんは、奥野さんの計らいで一年間、電通富山支局に出向の形で見習いとして働くことになる。
「奥野さんがディレクターで、その下で活躍していたADの石井(陽一・㈱アイアンオー代表)さんたちが次々と独立されて、私はその後任。富山県や大手企業の人たちと席を並べて会議をする。東京ではありえないことでした。デザインやキャッチフレーズなど何でもやりました」
奥野さんはどんな上司でしたか。
「誰もが知っているような、行政や大手企業の広報を圧倒的に請け負っていました。仕事を取ってくるというより作っていた。社会派の意見広告も得意で、ジャーナリストの目も持った人。そんなふうには見せていなかったし見えませんでしたけど」
「奥野さんの貯金箱から出た基金があって、そのお金を元に、会社横の喫茶店が溜り場になって毎朝たむろしていました。コピーライター、カメラマン、デザイナー、ジャーナリスト、面白い人がいっぱい集まってきて、奥野さんはみんなが楽しくやっているのをにやにやして見守っている感じだったかな」
あほな話ばかりしてたけどほんとにみんな生き生きしてたと思うわ、と羽根さんはつぶやくように言う。
時を経てフリーとして活動していた羽根さんに、再び一緒に仕事をしてほしいとの要請が来る。置県百年記念事業で、今度はADとして奥野さんにいちばん近いところで三年間を共にした。
生涯で質、量ともあれだけの仕事をした時期はないですね。誰でもやってみたい質の高い仕事を、奥野さんは若いクリエーターにどんどん振り分けました。例えば、新聞の全面企画広告のチーフを若手が任されるなんてあの当時他ではありえないことでした。女性のクリエーターが多く起用されたのも奥野さんならでは。そこそこの出来でいいという人ではなかったし、直されて突き返されて、奥野さんの目利きがあって公の場に自分の作品が形として出ていく。広告の影響力が大きくなっていったあの時代に、奥野さんの下で若い力が驚くほど引き上げられていきました」
今、リクルートする立場になってあのピラミッドの話を私も使わせてもらっています。富山に来るといい仕事ができるよって。奥野さんがポンと背中を押してくれて思い切って海を渡った。あのまま東京にいたらどうなっていたか。結局ここで、あの頃描いていた以上の仕事や人に出会った。奥野さんという師匠がいなかったら今の私はありません。私だけじゃないはずです。『背中を押してくれた』と思っている人はいっぱいいると思いますよ」
(税光詩子・記)

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電力の地産地消を目指して

堀内 康男さん 
黒部市長堀内 康男さん

黒部市は「水」の町だ。新潟方面から帰ってくると山肌に大きく掲げられた「名水の里 黒部」の文字が、ああ、富山に帰ってきたんだな、と教えてくれる。まごうことなく「黒部」は名水のブランドだが「美味しいだけではないんです」とお話しくださるのは、黒部市長、堀内康男さん(六十三歳)。
「地下水がこれだけ豊富なところは本州では、富士山の麓とここ黒部だけです。生地の湧水は有名ですが、実はほとんどの湧水は富山湾の海水の中で排出されています。地上三千メートルと海底千メートルまでの四千メートルの大きな水の循環が作られている。黒部ならではの水の環境をもっと活かしたいというのは、常に思うことですね」
就任ほどなく県内で初の自前の小水力発電所、宮野用水発電所の建設計画に取り掛かる。
「当時は水力発電所も小水力発電所も手続きの煩雑さは変わりませんでしたし、水利権の問題が立ちはだかっていました。ですが、どこにもやっていないことをやろう、宮野(用水発電所)で自前の発電所が実現できれば、我々(黒部市)の実績になるし、次につながると信じていました」
二年間の準備の後、平成二十三年四月に着工、一年で完成、翌二十四年四月に運転を開始する。平成二十三年は折しも東日本大震災が発生し、福島での原発事故以来、国のエネルギー政策は大きく転換していく。再生可能エネルギー活用が急務となり、二十四年には水利権等の規制が緩和され、売電価格も変わった。
「予定していた売電価格十円が固定価格買取制度により二十六円に上がり、利益が約三倍になりました。予想以上の収益でした」
順調な運営からその利益で次の発電所の計画も快調に進んだ。二十六年には計画に着手、二十七年には工事着手、二十九年二月に完成、運転を開始したのが、黒部市自前の第二の小水力発電所、黒瀬川発電所だ。最大出力は百八十キロワットで一般家庭約四百世帯分の年間消費電力量に相当する。
宮野用水発電所は山際にあり水勢も十分だが、黒瀬川発電所は、新幹線の黒部宇奈月温泉駅からも近い田んぼと住宅が混在する中にある。取水する黒瀬川は川幅四メートルほどの、「農業用水」も兼ねた川で、この時期は田んぼの刈取りも終わり水量もさほどない。この流量で本当に発電できるのかといぶかるほどだが、刻々と動く発電量を示す電光掲示板の数字はずっと百六十二キロワット辺りの数字を示している。こんな緩やかな傾斜でも発電所ができることに驚かされる。
「黒瀬川発電所は小水力発電所として標準的なパターンといえます。効率はそれほどよくないが赤字にもならない。この程度の環境なら富山県のあちこちにもっと造れると思いますよ」
市長の言葉には二基の自前の発電所が順調に稼働している自信がうかがえる。黒部市は小水力発電だけでなく、ディスポーザーにより家庭の生ゴミを粉砕して下水道に流し利用するバイオマス発電にも乗り出し、また地熱発電への可能性を探るなど、新エネルギーへの活用に意欲的に取り組み、これにより低炭素社会づくりの推進を図っている。
だがなんといっても黒部市は日本の水力発電の歴史そのものの町でもある。
「もともと国策として電源開発が行われ、資材基地とそこにやってきた労働者の慰安のためにできたというのが宇奈月温泉のルーツです。今年は宇奈月に調査に入った年から百年という節目の年でもあります。第一号の発電所はかつて今の温泉街の対岸にあったんです。そこに発電所を再建し、黒部で発電した電力で、温泉街は自前の電力でまかなう、電力の地産地消がその次の目指すところです」
「子供の頃、宇奈月温泉に行って、それまで見たことのないリフトのあるスキー場やプール、テニスコートなどに驚いたものです。電源開発は電気だけでなく、情報や文化をもいち早くこの地にもたらし、町が発展してきました。電源開発とともに発展してきた町からまた新しい情報を発信していきたいものです」
(税光詩子・記)

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大谷さんの館

中村 重樹さん 
小矢部市大谷博物館館長中村 重樹さん

大谷博物館は、まずその広さに驚かされる。千坪の敷地は塀で囲まれているので広さがはっきりとわかる。塀は大谷家時代からそのままのものらしいが、低く抑えられていて威圧感がなく、訪問者を受け入れてくれる雰囲気がある。
重厚な表門をくぐり、アズマダチの主屋へ向かうと、館長の中村重樹さん(六十六歳)が出迎えてくださる。
「私が小矢部市議会の議長時代に、米太郎氏の孫、利勝氏からこの屋敷の寄付の申し出がありました。受け入れから改修と関わってきましたが、完成を前に議員を辞め、それで関わることもないと思っていました。が、開館からしばらくして市長から拝命を受けることになり、現在に至っています」
中村さんの語り口は落ち着き、かといって人の気をそらさない。人物を見込んでの任命だろう。
訪問者は年間千五百人余りとのことだが、小矢部市内では、小学校三年生になると地域学習の一環で大谷博物館を見学に来ることになっている。
「このようなアズマダチの家は他にもありますし珍しくないと思いますが、最近の子どもたちの会話に耳を澄ますと『初めて見た』『外から見たことはあるけど中に入ったことがない』『おじいちゃんおばあちゃんの家だ』などと言っていて隔世の感がありますね。見学日は寒い時期が多いのですが、こんな寒いところでよく生活できたなあ、と驚く声が聞こえてきます。茶の間の囲炉裏に炭をおこしておくと、手をかざして、炭の匂いなども珍しいようで喜んでくれます」
表門を入って左手にある大谷家記念室は、大谷一族の偉業についてのパネルや収蔵品の一部が展示されている。貧しい農家の生まれで、兄米太郎氏が三十一歳で二十銭と握り飯を持って東京に向かうところから大谷兄弟のサクセスストーリーは始まる。二人とも相撲取りになるなど異色の経歴があったり、関東大震災や東京大空襲で全てを失いながらもすぐに立ち上がり、大谷重工業によって成功を収め、特に兄の米太郎氏はホテルニューオータニによりホテル王と呼ばれるに至る遍歴は山あり谷ありで、聞いていて飽きない。
大富豪となった大谷兄弟だが、大谷家を特徴づけているのは「寄付」である。
「昭和三十九年に建てられた今の小矢部市役所は、すべて大谷さんの寄付によるものですが当時のお金で一億二千万円だったといいます。その年の市の一般会計予算が五億円余りでしたからその額の大きさがよくわかります。学校の校舎への寄付にも並々ならぬものがあります。総じて言えば小矢部市の基盤を作ってもらったといっても過言ではありません」
貧しさゆえに小学校を卒業できなかったという経験から発した教育費への莫大な寄付が、米太郎氏だけでなく弟の竹次郎氏、更には竹次郎氏の子、勇氏をはじめとした子孫にまで引き継がれていったことは、大谷家の特筆すべきところだろう。
中村さんが一冊の冊子を見せてくださる。地元の正得自治振興会によって大谷家についてまとめられた冊子で、タイトルが「大谷さん」とある。
「近辺の方々が時々遊びに来てくれて、居間の囲炉裏の周りで米太郎さんと語り合ったことを話してくれますが、決して偉ぶらず、地元の話をよく聞いてくれたといいます。富豪となっても、ずっと親しみやすい存在だったんですね。米太郎さんも昭和三十二年から空家になったこの家を、度々手を加えて維持されたというのは、地元への気持ちが深かった証と言えます」
これだけの業績をもっと多くの人に知ってほしいですね、というと、「そうなんですよ」と、ずっと静かな語り口の館長の語気が少し強まる。
「ホテルニューオータニの社員や、アウトレット施設の情報からここを訪れてくださる方がいらっしゃることもうれしいことです。しかし地元に目を向ければ、下の年代になるにつれ、あまり知られなくなっていることも事実です。この博物館ができたことで、小矢部市へこれだけの貢献があったことを、もっと若い世代に伝えていきたいですね」
(税光詩子・記)

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思い出の田中小学校

本田 俊昭さん 
本田理容店店主本田 俊昭さん

まず目に入ってくるのは、少し赤みがかったチョコレート色の洒落た色合いの板張りの外壁。入母屋造りの玄関の白の漆喰とのコントラストが印象的で、庭の針葉樹と、その日は庭に降ったばかりの雪も相まって、校舎は美しさと風格を増している。中に入ると正面に、左右に分かれた中央階段がある。手すりや踊り場の柱等に凝った意匠が施されていて、また、来賓室の造りのていねいさは小学校とは思えないほどだ。「富山の建築百選」に選ばれるのも頷ける。
今回お話を伺うのは、同校の卒業生のお一人、本田俊昭さん(八十歳)。本田さんは本田理容店の三代目で、理容店は田中小学校から五分ほどのところにある。ねじねじの三色の看板を目当てに行って店の扉を開けると、お客さんの髪を整える本田さんの姿があった。背筋が伸びていて、鋏を使う姿が凛としている。
本田さんは、田中小学校が開校した昭和十一年より一年あとの昭和十二年生まれ。
「私が入学したころはできてから六年しかたっていませんし、まだ新しいピカピカの学校でした。今残っている校舎には、来賓室や校長室がありますが、小学生の時はどちらにも入ったことはありません。そっと覗いたことはありますが、恐れ多くて児童が足を入れるところじゃなかったですね。真ん中の階段の手すりは先生の目を盗んでよく滑って降りたものです。怒られても懲りずに繰り返し滑っていましたね。私だけじゃなくみんなやっていましたよ」
七十年前のことなのに、私だけじゃなかったと言い訳する本田さんは小学生に戻っているようにも思える。美しい栗色の手すりの上部分が禿げ上がって木地が出ていたのは、長年子供たちが滑って磨いたことにもよっている。芸術的な造りだろうと子供たちには関係なく、階段の手すりが遊びとして使われていたというのはホッとする話だ。
「戦時中も学校は毎日ありました。空襲でサイレンが鳴ったら混乱して逃げにくいからと、先生から言われて裸足で登校していたのを覚えています」
「戦争が終わってからもしばらくはグラウンドでサツマイモやジャガイモを作っていましたし、当時、豚も三頭学校で飼っていたんです。私は豚の世話係を仰せつかっていて、用務員さんが餌がなくなったと教室に言いに来ると、授業中だろうが何だろうが、豚の餌を集めに行かされたものです。『あの時ちゃんと授業を受けていたら東大へ行けたかもしれんのに』と同級生と集まると冗談を言ったりしますよ」
元々の旧田中小学校はコの字型で教室は両脇の校舎にあった。
「入口に足洗い場があってちゃばちゃばと足を洗って教室に入ったものです。あの時分、今でいうズックを履いている子はいませんでした。学校の中では基本的に裸足です。それでも寒いと思った覚えがないです。そういうもんだと思っていました。冬の暖房は火鉢ひとつで、休み時間になるときかん奴らが独占して女の人は当たれなかった。それから、作法室という畳の部屋があって、先生がみんなに黙っとれよと言いながら、寝技をかけて遊んでくれたこともありましたね」
思い出は尽きない。
「数年前に同窓会で、集合場所が小学校のすぐそばだったんです。集まった女性の中で遠くに住んでいる女性もいて校舎を見て懐かしがっていたもので、中を見られないかとお願いしたところ、校長先生自ら案内してくださいました。思いがけない出来事にみな喜んでいましたね」
昔は入学式というと子供たちが親に連れられて店の横の道を行くのを見かけたが、近年はそういう姿を見かけることが少なくなり、数日経ってからこの間入学式だったと聞くことも珍しくないという。子供の減少はどこの地区にも共通する淋しさだ。
「まだ自分の出た小学校があるのはありがたいことですね。校舎の前を通りますと時々立ち止まってみます。豚の餌を集めたことを思い出したりして」
(税光詩子・記)

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えんなかへいらっしゃい

本田 俊昭さん 
元砺波郷土資料館長高原 徹さん

四月上旬のチューリップ公園のつぼみはまだ固い。
あと二週間で三十万人を上回る観光客を迎える公園はまだひっそりとしている。フェアの開始とともに華やかな行事が繰り広げられる公園内のステージからそう離れていない所に旧中嶋家住宅がある。移築されてすでに四十有余年、カイニョの杉の木には直径四十センチを超えるものもある。前庭のこぶしの花が咲き、柿や梅の木に囲まれる茅葺の民家は、すでに元からここにあったように馴染んでいる。
 フェアが始まると、旧中嶋家住宅の囲炉裏は終日火が入り、休憩所として多くの観光客を迎える。接待に当たるえんなか会二十七名の会員は二週間の期間中、一人平均五日担当する。かなりハードなボランティアだが、立ち上げ以来、会の中心的行事としてずっと続けられている。
 「役所の対応じゃなくて、柔らかい、えんなか会のみなさんの接待は評判がいいんですよ」とおっしゃるのは高原徹さん(七十歳)。会員ではないが、教師時代に、また、砺波郷土資料館長として、長年すぐそばで会の活動に携わってきた。
 「創設当時のほとんどの方がすでに亡くなっていますが勧誘がうまいのか、次々に若い人が入ってきて世代交代が図られている、運営の上手な会です」と賛辞を惜しまない。三十五年も継続できたのは、やはり「旧中嶋家」に惹きつけられるからだと分析する。
 「茅葺屋根の家は砺波市に二軒残っていますが、中で、火を焚いて活動できるのはこの家屋だけでしょう。旧中嶋家住宅は私が生まれた家そっくりです。自分が生まれて育った家のことは誰でも懐かしく思い出します。経験してきたことは自分の内にあることですから誰に言われなくてもすぐに話せる。昔の田んぼや遊びのこと、方言などいくらでも出てきますよね」
こういったことを話だけに終わらせず、砺波の文化や伝承などをはじめとして、活動の記録など十六冊に及ぶ冊子を発行されているのはすごいことだ。発会当初は明治生まれの人もおり、相当古い時代のことが残っているので貴重な資料になっていると高原さんは言う。
昭和六十一年三月に出された「おらっちゃ 昔 こうして遊んだ」は百ページの本で、二年にわたって会員から集めた話がまとめられている。
 例えば夏の遊び「水あべ(浴び)」については一頁を割かれており、「男の子は勿論マタエモン(パンツをはかない)で、友達が締めてきた赤ふんどしがうらやましく、母親にせがんで縫ってもらい、道行く人に見てもらいたさに水辺の木の枝につるしてひらひらさせておき、結局マタエモンで泳いだ」や「水あべをして寒くなってくると近くの田んぼに入って体を温めて、苗をいためて叱られた」など、子供の遊びを通してその時代全体が浮かび上がる書き方になっている。当時の様子を思い出し、話し合ううちにあんなこともあった、こんなこともあったと盛り上がる。編集の過程の和気あいあいとした話し合いの様子が目に浮かぶようだ。
 こうした、なぜかとても楽しそうな和気あいあいとした雰囲気は、ずっと受け継がれていてえんなか会の芯になっており、結構ボリュームのある年間行事を「和気あいあい」で乗り切っておられる。
 近年は伝統事業の継承に力を注がれており、昨年はえんなか会の活動をまとめた記録動画も作られた。砺波郷土資料館で拝見したが、砺波地方の伝統文化を知る上でわかりやすい作品になっている。読者諸氏も機会があればぜひご覧いただきたい。
 「たとえば、餅つきをするにも、蒸籠、臼、杵などの昔の道具がすぐに集まり準備しやすいのもこの会の特徴でしょう。先祖が使ってきたものは捨てるのがもったいないという思いや、家が広いので使わない道具も保存できるという砺波ならではの事情があります」
 「何不自由のない贅沢な生活から時には抜け出してみたいという気持ちは誰にでもあるんじゃないでしょうか。火さえあれば灯りになり暖がとれて人が集まる。囲炉裏の火を囲んで、ゆったりした時間を多くの方に味わっていただきたいものです」
(税光詩子・記)

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菅笠を明日につなぐ

城山 孝さん、中島 明さん 
菅笠製作技術保存会会長城山 孝さん
菅笠製作技術保存会理事中島 明さん

小冊子『福岡町の菅と菅笠』の巻頭に、昭和十年の福岡駅のプラットホームの写真がある。駅舎の屋根に届くほどの高さに荷造りされた菅笠が立ち並ぶ。かつて菅笠は、福岡町を代表する一大産業だった。
 時代の流れで菅笠の需要は減り、規模は縮小してしまったが、全国各地で菅笠づくりが衰退する中、福岡町の菅笠は今や国内生産の九〇%を占めるようになった。山形の花笠まつりの笠も八〇%は福岡産の笠だという。こうやって菅笠づくりが維持されているのは、地元で地道に技術を守り続ける人があるからだ。
 お話を伺うのは、菅笠製作技術保存会会長、城山孝さん(八十三歳)と、理事の中島明さん(八十一歳)。城山「スゲは一〇〇%福岡産です。今日の午前中も圃場視察に行ってきました。予定していても実際に作られていなかったりすることもあるので、自分の目で確認するのはスゲの生産量を確かめるのに大切なんです」
 会長の城山さんは、求められれば福岡の菅笠についての講演をするなどのスポークスマンを務める。それだけでなく、スゲ生産や笠骨製作も行う。笠骨製作を始めたのは数年前と遅咲きだがもともとセンスがあるのだろう。城山さんはすぐ腕を上げ、関係者の評価は高い。
 中島さんがスゲ生産を本格的に始めたのは定年後だが、それ以前も夫人の栄子さんのスゲ生産を手伝ってきた。栄子さんは今は体調を崩しているが、数年前までは腕の良い縫い手でもあった。持参された栄子さんが作られた菅製のヘルメットは、素人目にもきれいな仕事だとわかる。城山さんの夫人ミキさんも笠縫職人で時には講習会で指導に当たることもあるという。
 中島「昔は『笠ぼんこ』と呼ばれる笠縫道具一式が入った箱が嫁入り道具で、家内も持ってきてそれをずっと使っていました。福岡の在では笠が縫えないと嫁にいかれん、と言われたものです」
 スゲの田植えは秋。四十センチほどの苗を斜め四十五度に植えるのは春に出る新芽と区別するため。独特の定植風景は写真家風間が取材を始めるきっかけになった。
城山「始めた頃、新芽がたくさん出て喜んでいましたが、少し大きくなって間引くようになると、新芽が多いとかえって大変なことがわかりました。浅く植えると芽の数が増えてしまう。植える深さが大事です」
 一回目の間引きは芽が小さいので押し込めるが二回目以降は抜くしかない。これもまた重労働とのこと。
 「この辺りの百姓は、遊ぶ暇がまったくなかった」と中島さんが言うように稲とスゲの農作業が入り組んで休む暇がない。特にスゲ干しは大変な作業だという。
中島「刈取りのあと三日三晩干すので、雨にあわない時期に刈り取るのが肝心。親父はこの頃になるといつも空を見ていましたね。最低三日間は干さないと三角の芯が乾かない。乾かないと色が悪くなりカビが生える。子どもの頃は遊びに行っても、雷が鳴ったらすぐに帰ってくるのが約束になっていました」
 スゲ干しには栽培の三倍の面積が必要で、昔は干場の取り合いで裁判沙汰になったほどスゲ干場の確保は大変なことだった。一方、プリーツスカートの様に、スゲを束ねて扇状に広げられた様子は、福岡地区でしか見られない美しい風景と言われている。
 保存会では後継者育成のための講習会が度々開かれているが、若手の育成の難しさはこの世界でも同様だ。後継者不足を解消する一手に苦慮する現実だが、小学校のPTA活動でバケツでのスゲ育成に取り組むなど、底辺からの普及活動にも取り組む。また、刈取り作業軽減のために、近年まで機械化を試行錯誤したが、スゲを傷めるため実現には至らなかった。
 城山さんも中島さんも生まれた時から生活の中にスゲや菅笠づくりがあった。身の内に染み込んでいる。スゲ生産、笠骨、縫い職人、どの現場もこういう方々がおられて、繊細な技術の結晶である福岡の菅笠は成り立っている。
 帰りに鳥倉地区の中島さんのスゲの圃場を見せていただく。スゲはまだ五十センチほどしかなかったがこれからぐんと伸びるらしい。今年はここ福岡でしか見られないスゲ干しの風景をぜひともこの目で見たい。
(税光詩子・記)

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この酒を造るこの水で

桝田 敬次郎さん、桝田 隆一郎さん 
(株)桝田酒造店会長城山 孝さん
(株)桝田酒造店社長桝田 隆一郎さん


 北前船で栄えた廻船問屋がたち並ぶ岩瀬の北国街道は、今は明治期の建物を活かした観光地として人気がある。桝田酒造店は通りの中ほどにあり、新酒の売出しを告げる大きな杉玉が目印になっている。以前はその杉玉も自ら作られたという桝田酒造店会長の桝田敬次郎さん(八十三歳)に富山の水について伺う。
 敬次郎「この辺り一帯は常願寺川伏流水ですが、いい水です。水量が豊富でしばらく前まではこの辺りでも自噴していました。富山市の名誉のために言うと地下水だけでなく、水道の水もものすごくいいです。カルキの匂いがゆるい。地下を通るか、パイプを通るかぐらいの違いだと言ってもいいほどです」
 水にも吟味に吟味を重ねてきただろう敬次郎氏の富山の水への太鼓判は、耳に心地よい。
 敬次郎氏は「吟醸の満寿泉」を世に知らしめた人として日本酒業界で名が通る。先代の急逝により二十二歳で桝田酒造店の当主となった彼の元にやってきた若い杜氏が三盃幸一氏、後に「能登杜氏四天王の一人」と呼ばれた人だった。
 敬次郎「二人で相談しながら酒を造ってきました。昭和四十年代半ばになると大手が力をつけてきて、小さい酒蔵はバタバタ潰れるようになりました。どうしたら生き残れるか考えて、大量生産しにくい、大手がやりにくい吟醸酒に取り組むことにしたのです。杜氏(三盃幸一氏)が酒造りが本当に大好きで、熱心に取り組んでくれました。その当時吟醸はまだ一般的でなかったので、造ったもの勝ちのようなところはありました」
 昭和四十七年の鑑評会から金賞の常連組となり、吟醸酒を中心に蔵は運営されるようになる。吟醸酒に取り組んだのは、先代の思いでもあった。
 敬次郎「先代の父の時代は、吟醸酒は特殊技術と言われ、新潟杜氏や南部杜氏は造れても、うちに来ていた能登杜氏は造ることができなかったんです。品評会に酒を出せない父はずいぶん悔しがって、私に、『吟醸を造れるような勉強をして来い!』と言ったものです」
 先代の思いを実現した敬次郎氏の後を引き継いだ当代隆一郎氏は、フランスのシャンパーニュメーカーと共同で造った純米吟醸酒が話題になるなど、海外を視野に入れた展開が話題となっている。世界に向けて売るのはハードなことではないですか、との問いかけに、
 隆一郎「私は私の立ち位置で生き残れることをやろうと思っているだけです。最終目的は我々の家族が幸せにやっていくことなので、そのためなら酒屋もやめるという選択だってあるかもしれません」
 いや、やめませんけれどと、笑いながら言葉は続く。
 隆一郎「ときどき『(家族が)よく君の好き勝手をそんなに許すね』と言われることがありますが、私は当たり前のことを当たり前にやっているだけです。この家に生まれて、父と母やみんなに囲まれて育ってきましたから、基本的なものの考え方とかリズムとか、自然と私の中にあります。たとえば器の白い余白を美しいと思うかどうか、入れたお茶の味をおいしいと思うかどうかなど、日々の会話の中で刷り込まれていて、その中から生まれるものです。売るのがハードとか、何とかここを攻めて突破しようなどと考えたことはありません。おかげさまでいろいろな方との出会いがあり今に至っています。しかし出会いの中で、最後にものを言ってくれるのは酒ですね」
 隆一郎「水はもちろん大切な要素ですが、たとえばワインにしても、同じ材料、土壌でも、隣同士の醸造所で造ったとしても全く違ったものになります。何より大切なのは造り手の思想だと僕は思います」
 満寿泉の吟醸の味を守り続け、さらなる展開にチャレンジする隆一郎氏の言葉には説得力がある。
 隆一郎「外に出ると『この酒を造るこの水で、僕たちは風呂を沸かし、庭に水をやり、車を洗っているんだ』、と自慢することがあります。富山の女性の肌の美しさはこの水があるからこそでしょうね」
(税光詩子・記)

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